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ナウル共和国

「あの国は、イソップ物語のアリとキリギリスを地でゆくかもしれないよ。一見の価値ありだ」と、南太平洋に詳しい友人に勧められて、鹿児島から週2回飛び立っていたエア・ナウルの乗客となりました。

ボーイング727の100を超すシートに乗客は全部で5人。

「いつもこんなものですよ」と言いながら、ナウル人、ソロモン人、フィジー人、日本人の4人の美人スチュワーデスは、離陸早々からリキュール類のサービスをしてくれました。

沖縄、グアムを経由し、ポナペの島々を視界にかすめながら南下すること10時間。

赤道直下の太平洋のまっただ中に"涙のひとしずく"のような島が現れました。

目指すナウル共和国でした。

ナウルぐらいその全貌をつかみやすい国はないでしょう。

国土は海に突き出たさんご礁のかたまりを含めても、伊豆大島の4分の1にしかならない23平方キロ、車でゆっくり島を1周するのに30分とかかりません。

この世界で最も小さい共和国は、岸辺こそ熱帯の深紅の花が咲き誇り、「喜びの島」というジョン・ファーン船長の命名にうなずきたくもなりますが、海抜60メートルの中央台地に向かうと様相は一変します。

そこは厚さが10メートル近くにもなる海鳥のフン、つまりリン鉱石の堆積層なのですが、ブルドーザーとクレーン機であたり構わず掘り返されたため、いまでは500ヘクタールからの台地の大半が、月面のクレーターさながらに、灰色の荒涼たる光景をさらしていました。

しかし、5000人のナウル人が年間に1人1万豪ドル(当時約230万円)を超す国民所得を得て、水道、電話、医療、教育も一切無料といった恩典を享受できるのは、推定で年間4000万豪ドル(当時約72億円)にのぼるリン鉱石の輸出のおかげなのです。

一大サバイバル作戦を開始

その富める国が、なぜイソップ寓話のキリギリスになるのでしょう。

実は、"宝の山"も1906年に採掘に着手して以来約100年が経過し、大方採り尽くしてしまったのです。

「残された埋蔵量は、せいぜい2000万トン。

年間175万トンずつ採掘していけば、あと11年でなくなります」とナウル・リン鉱石公社の幹部。

カネを稼ぎ出す労働力は、ギルバートやツバルからのお雇い外人にまかせ、ビールと浜辺のパーティーに浮かれていると、12年後には収入ゼロの破産国家の運命が待っているのです。

「これではいけない」と、デロバート大統領が先頭に立ち、一国の興廃をかけた一大サバイバル作戦が開始されてはいます。

ひとつは、貿易収支が大幅黒字のうちにこれを投資に回し、収益を年金代わりにして食べていこうというもの。

投資の重点は航空、海運、貸しビル。

20年前、保有機1機でナウルとメルボルンの間だけを飛んでいたエア・ナウルが、今では日本、香港、台湾から太平洋の島々を経由してオーストラリアまでつないでいます。

しかし、"5人乗客"に象徴されるように経営は採算を度外視しています。

1番期待しているのがメルボルン、サイパン、香港などで経営している貸しビルですが、利益が出るのはこれからです。

もっと壮大な構想は、廃鉱で植林や農業もできない島を捨てて、国ごと引っ越そうというもの。

かつてオーストラリアが、クインズランド州の島を提供する意向を提示しましたが、国籍の問題がからんで実現しなかったのです。

デロバート大統領は、当時、フィリピンの島を2、3買い取りたいと希望し調査も行っていましたが、島とはいえ国土の"売却"だけに、フィリピン側が応じるかどうか疑問です。

わたしの会ったナウル人は一様に「たとえ廃鉱で覆われても、異郷の地で他の民族の中で暮らすよりいい」と島を離れる気持ちは持っていませんでした。

日本からの援助はゼロ

ナウル政府は、日本人の電気や自動車の技師を雇用したり、政府自ら日本レストランを開店するなど日本との協力に期待をかけましたが、長続きしませんでした。

エア・ナウルも「鹿児島ではなく、東京への乗り入れが認められれぱ乗客も増える」と要請を続けていたのですが、日本政府の返事は「ノー」と素っ気ないもの。

日本軍は太平洋戦争の勃発直後からナウルを爆撃し、1942年8月には占領、デロバート元大統領らナウル人1200人をトラック島へ強制移送したのです。

終戦後、生きてナウルに戻ったのは737人でしたが、ナウルは戦時賠償を請求しませんでした。

このため、日本はいっさい賠償を行わず、また現在、南太平洋各国に与えている経済技術援助もナウルへの実績はゼロです。

ナウルの将来がどうなるかは、だれも知りません。

ナウル人自身も知りません。

この質問をすると、彼らは一様に押し黙ってしまいました。

身を削って富を得る日々は残り少なく、キリギリスを苦しめた冬は目の前に迫っているのですが・・・。

「開放経済」で活気づく中国

香港の九竜駅は、大きなトランクを抱えた大勢のアメリカ人でごった返していました。

経済開放政策で活気づく中国を見物に行こうという観光客です。

午後1時5分、広州行きの直行列車がホームを離れました。

2人掛けの座席は、横幅も座席間隔も新幹線よりゆったりし、なかなか快適です。

羅湖駅で国境を越えたと思ったらそこは経済特区、深馴。

高層のホテルやビジネス・ピルが林立する光景に、一瞬、新宿の副都心を見ているような錯覚におそわれました。

「香港と変わりませんねえ」と、向かい側の座席からアメリカ人の観光客が声をかけてきました。

しかし、その先に広がる農村風景は、さすがに中国を感じさせました。

農民は広々とした耕地にスキとクワを振るい、天びん棒で荷を運んでいました。

トラクターが普及していなかった当時は、土起こし役は、まだ水牛だったのです。

午後3時45分、広東省の省都、広州市に着きました。

3時間足らずの短い汽車の旅で感じたタイムトンネルに入ったような錯覚は、ここで再び現代社会に引き戻されます。

広州市もまた高層ホテルの建設ブームにわいていました。

24階建て、1200室の客室を持つ花園酒店(ガーデンホテル)が営業を始めたのは、10年前。

当時、使える客室はまだ200室だけで、他は工事中の仮営業状態。

しかしロビー人で埋まり、エレベーターもいつも満員。

地元の人たちが見物に来て、ロビーで記念写真を撮ったり、最上階の回転レストランへお茶を飲みに押し寄せるからです。

「香港から親類が来たりすると、客室へどっと押しかけ、順番に数時間にわたってシャワーを浴びるんです。

だから時々、お湯が出なくなる」とホテルのマネジャーはこぼしました。

太平洋岸の14都市を経済開放

中国政府は深別、珠海など南部の4つの経済特区に加え、84年4月、大連、天津、上海、広州など太平洋岸の14都市を経済特区に準じる経済開放都市に指定しました。

「以前は上海や天津の方がにぎやかでしたが、ここ1~2年は広州の方が活気がある。

香港はもちろん、深馴にも許可がないと行けないから、広州を香港に見たてて、中国各地から見物に来る人が多いんです」

案内役の広州市の女性職員さんが自慢そうに言っていました。

広州が急発展した背景には南シナ海での石油開発があります。

アジアで最も有望な油田地帯とされる南シナ海には、今、国際石油資本(メジャー)や日本の石油開発会社が集結して試掘の真っ最中。

広州市はその中枢基地です。

84年の春に完成した、中国酒店(チャイナホテル)に併設した15階建てオフィス・ビルは、中枢基地のそのまた中枢です。

7階以上はブリティッシュ・ペトロリアム(BP)をはじめメジャーの事務所。

日本の華南石油開発(石油公団とアラビア石油など民間各社との合弁)もありました。

6階以下も、リグ会社を含む石油関連企業が軒を連ねる国際色豊かなオイルマンたちの"戦揚"です。

しかし当時、各石油会社の試掘結果はもう一つぱっとしませんでした。

油層にはぶつかっても商業べースの生産量には今一歩といった状態。

もし石油が出なかったら、広州の経済発展は大きな壁にぶつかるのではないか・・・と不安に思いました。

太平洋岸の14都市を経済開放 その2

広州市の東方35キロ。

建設中の経済技術開発区で会った広州市対外経済委員会の副主任は、こんなことを言っていました。

「確かに石油が出れば発展にはずみがつくでしょう。

しかし、広州を上海、天津とともに先端技術産業の中核基地にしようというわれわれの計画は、石油問題と直接関係ありません」と断言しました。

84年の10月8日、広州市で広州と蛋を結ぶ高速道鷺設の合意書が取りかわされました。

中国と香港の合弁で85年に着工し、89年開通の予定をたてました。

全長113キロの6車線道路で、2つの都市は1時間ちょっとで結ばれることになりました。

「香港・広州経済圏」の実現は、当時時間の問題だと思われました。

社会主義国家.中国沓れほど大胆に、しかもこんなに急激に変わってよいのか・・・

資本主義国家から来た人間さえ、そんな疑問が頭をよぎりました。

広州市の工科大学で冶金工学を専攻したという友人・金さんは、こちらの疑問を見すかすようにこんなことを言いました。

「みんな頭を切り変え、豊かになろうと一生懸命です。

人々の中にもし変化への戸惑いがあれば、開放政策はこんなに順調に進まないでしょう」と自信たっぷりに言い切ったのです。

フランス領ニューカレドニア

10年前にニューカレドニアへ行ったことがあります。

古タイヤやドラム缶が乱雑に積み上げられ、道は完全にバリケード封鎖されていました。

ライフルを構えた"兵士"たちが、鋭い目つきで警戒に当たっていました。

わきにへんぽんと翻る新国家「カキナー」(カナク人の国の意)の国旗。

南太平洋の"楽園"フランス領ニューカレドニア北東部の村での光景です。

そこにはフランスの甘い香りなど、ひとかけらも感じられませんでした。

一方、同時刻、その村から数百キロ離れたニューカレドニアの中心地ヌーメアでは、まったく違う光景がありました。

広場を埋めつくした8000人の市民たち。

打ち振られる三色旗。

演壇に立ったニューカレドニア議会のディック・ウケイウェ議長が呼びかけていました。

「われわれは永久にフランスと共にある」。


「そうだ。独立なんていうやつは海にたたきこんでやれ」

興奮した市民が叫びます。

わき起こるラ・マルセイエーズ(フランス国歌)。

それは大合唱となって会場を圧していました。

日本が輸入するニッケルの4分の1以上がニューカレドニア産です。

戦前、数千人の日本人が移民し、現在も約2000人の日系人が住んでいるのです。

この島を訪れる観光客で1番多いのが日本人。

この、日本と多方面で関係の深いニューカレドニアは当時、フランス植民地からの独立問題で大きく揺れていたのです。

独立もとめ、武力行使に出る

独立を求め、武力行使に出たのはカナク社会民族解放戦線(FLNKS)、先住民族のメラネシア系カナク族で組織する"過激派"でした。

FLNKsは、指導者ジャンマリ・チバウ氏を議長として84年12月1日、臨時政府を樹立。

「カナキー」の独立を宣言しました。

そして、島部一帯で道路を封鎖し、独立を武力で勝ち取ろうとしたのです。

この過程で、独立反対のフランス系住民と衝突が起き、爆弾テロ、銃撃戦によって双方に死者が出ました。


カナク族に武器を取らせたものは何だったのでしょうか。

ヌーメアの下町。

小さな公園のベンチに座り、新聞を読みふけっているカナク人の老人に話しかけました。

「この騒ぎをどう思う?」

「お前さん、知ってるかい。この国じゃあ、おれたちなんてお荷物みたいなもんだよ。

フランス人ばかりがいばって・・・」。彼はゆっくりと、しかし悲しみを込めて語りました。

実際、ヌーメアの街を歩くと、メラネシア人たちの表情の暗さが気になりました。

お隣のソロモン諸島やバヌアツのメラネシア人のはつらつとした表情とはどこか違います。

「植民地」という重圧は、微妙に顔に出るものなのでしょうか。

ニューカレドニアの歴史は、カナク族に言わせるとそのまま忍耐の日々だといいます。

1853年のフランス領有宣言以来、抵抗するカナク人に対する弾圧は激しく、人口が一時半分近くになったほど。

土地は取られ、今でも国土の90%以上がフランスなど欧州系によって所有されているのです。

世界一の埋蔵量を誇るニッケルもほとんど欧州系市民が独占しています。

「怨念」は深いでしょう。

フランスは、85年7月に、独立を問う島民投票を行いましたが、カナク人の独立を求める動きは、フランスのミッテラン政権(当時)にも大きな影響を与えていました。

ニューカレドニアは他の島喚国と違う事情がありました。

カナク族などのメラネシア系が総人口14万4000人中、42%と少数派であることです。

ヲランス系市民の中には、この島で生まれ本国を知らない者も多いのです。

ニッケル鉱山を開発し、メラネシア人にも教育や労働のチャンスを平等に与えているとの自負もあります。

「独立して、はたしてまともな国がつくれるのか」とフランス系市民のタクシー運転手さんは言っていました。

他国の「民族自決」に刺激

ニューカレドニアはどこへ行くのか・・・。

それは島民ばかりでなく、太平洋に残った他の植民地の住民にとっても大きな関心事でした。

タヒチ、ワリスなど、ニューカレドニアの動き次第では独立を求める声が出る情勢のところもありました。

インドネシア領のイリアンジャヤ(東ニューギニア)、マレーシア領のサバ州(ボルネオ北部)などの所属する国から分離独立をめざす動きにも刺激を与えることでしょう。

太平洋圏では、「民族自決」を求める声はまだまだ現実のものでした。

ニューカレドニアは大きな流れの通過点にすぎません。

独立をめざす大きなうねりは、鉱物資源、木材、漁業、観光などで強い結びつきのある日本にとっても、決して無関心ではいられないことです。

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卒業して帰る国なし

10年以上前の話。

「ベトナム料理 MAI・LAN」と書かれた狭いドアを開け、薄暗い階段を上ると、ハっとしました。

100人以上のお客を収容できる広さ、そして、フランス風の店内装飾・・・。

オーストラリアの首都キャンベラにいながら、パリのレストランにでも入ったような錯覚を起こしました。

「やっと落ち着けるところができたヨ」

店長さん(当時34歳)は、流ちょうな日本語で、しみじみ話し始めました。

ホーチミン市(旧サイゴン)近郊で生まれた店長さんは、地元の高校を卒業すると、日本の某大学に留学したそうです。

「戦争が終われば、経済復興の時代が来る。それまでに、日本を勉強しておいた方がいい」と勧められたためです。

ところが彼が大学4年の時、ベトナム戦争が終わりました。

南ベトナム政府は消滅し、パスポートは無効になったのです。

この日から、「ベトナム人でも日本人でもない生活」が始まりました。

国からの奨学金も、途絶えたそうです。

かろうじて、某市ロータリークラブからの奨学金で食いつなぎ、家庭教師やボウリング場のアルバイトをして、大学院を卒業しました。

就職も地元の酒造会社に決まりました。

もう、ベトナムに帰っても仕事がない・・・日本で永住権を取ろう、と思ったそうです。

しかし、日本に10年以上も住んでいたのに、法務省の壁は厚かったのです。

「このままでは、日本で子供ができても、国籍さえ取れない」。

思い悩んだ末に、オーストラリア行きを決意したそうです。

「国も広いし、人も少ないから、何とかなると思った」と、店長さんはちゃめっ気たっぷりに笑っていました。

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